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【映画感想】海街diary

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映画の感想、レビューです。映画自体の説明は不要でしょう。Wikipediaをのぞいていみると、とにかくあらゆる賞をとっている模様です。
あらすじ含めて、気になる方はWikipediaを読んでみてください。

海街diary - Wikipedia

 

※以下、すでに観賞済みの方のみお読みください。

 

まず、この映画を一言で表現するとすれば、「雰囲気映画」だということです。
雰囲気イケメンは綾野剛、雰囲気美人は剛力彩芽、そして雰囲気映画は海街diaryです!
※個人の感想です。そして褒め言葉です。

 

私は何の前情報もなく、この映画を観賞しました。原作があることも、物語の舞台が鎌倉であることも全く知らず見ることができました。そんななか映画の雰囲気をしっかりと形作っているのは、秀逸な脚本です。近年の映画では非常にめずらしく、この映画、なんとなにも事件が起こりません。事件は起こりませんが、いろんなことが事件ではないまま描かれます。でも、120分しっかりと惹きつけてくれる脚本の力があります。

 

映画冒頭、長澤まさみのナマ足と着替えシーンを持ってくることで、男性諸君は時間を費やす価値を見出すことができました。男の腕の中で目覚めた長澤まさみは、軽いキスと投げキッスでアパートをあとにし、歩いて帰れる距離の自宅に戻ります。この数分間で長澤まさみ演じる次女・佳乃の性格を描き切ったといっても過言ではありません。
携帯電話の着信で目覚め、そそくさと着替える佳乃に、「仕事?」と声をかけながらもベッドの上で目をこする彼氏。そんな男のそばまでいってキスをした佳乃は、まさにダメンズ・ウォーカーです。直後、お葬式のシーンでは場違いとまではいわないまでも、周りよりも短めなスカート丈。佳乃と彼氏との距離感を見せたあと、佳乃の服装をもって観客の予想に裏付けを与えています。
「あるある」といえるほど象徴的でなく、しかし複数の「記号」を意図的に見せることによって、登場人物の背景を浮かび上がらせました。わずか数分の間に。

 

中盤になって、佳乃はダメンズである彼氏と別れたことが描写されますが、ここも鮮やか。
「大した仕事じゃないよ」としか言及されていなかった佳乃の職業は地方銀行の行員です。銀行の窓口業務を行なうシーンは、そんな職業に関する情報の補完かと思いきや、ガラの悪い男に連れられた彼氏が定期口座を解約しにやってきます。その後、お金を返す返さないの電話が一本あるだけ。ヤケ酒を飲む佳乃を見て、観客は佳乃の失恋を知ります。
長々とした会話なんてないんです。ガラの悪い男、お金の話をする彼氏、ヤケ酒。こういった「記号」の繋がりだけで失恋を描き、あとは想像で埋められる最低限の情報が配置されているだけ。

 

こういった、情報がある一定の距離をもって提示され、結果として全体像が浮かび上がる、という手法がこの映画には随所に見られます。とても上品に。

 

父親のお葬式に出向き、異母姉妹であるすずを、三姉妹が我が家へ迎え入れるところからこの物語は始まりますが、最初の十数分だけで、三姉妹が妹を迎え入れる動機、初対面の三人の姉を頼ることを決意する末っ子の心の変化、そういった四人の心の機微をしっかりと見せてくれます。

 

仕事を理由に次女と三女だけを父親のお葬式に向かわせる長女。次女と三女は不満を持ちながらも、しぶしぶ山形まで赴きます。冒頭で長澤まさみにフォーカスを当て、華やかさを演出するとともに鼻の下の伸びた男どもを画面に釘付けにした直後、惜しげもなく綾瀬はるか演じる長女と、夏帆演じる三女を投入し、美人三姉妹の会話によって観客の期待感を最高潮まで持って行きました。美人三姉妹が一同に会することで、私なんかテレビ画面が大きくなったのかと思うほど神々しい絵面に一人で興奮していました。でも、長女はお葬式には行かないなんていうから、すぐに次女と三女の二人だけに。観客は肩透かしを食らいつつも二人を見守るしかありません。あぁ、はるかロス! すると、駅まで迎えに来た広瀬すず演じる四女が緊張しながらも礼儀正しく道案内してくれました。綾瀬はるかがフェードアウトしたかと思うと、まだまだピチピチ純粋無垢を漂わせる広瀬すずが迎えに来てくれただなんて、これはもうありがとうございます! 三姉妹と違って、制服での登場が自然で、かつ透明感をもたらしています。

 

世の女性の一部には、長澤まさみのナマ足と着替えシーンをあざとく感じる方もいるでしょう。ただでさえ女性には不人気な長澤まさみ。その細長い肢体に不釣り合いな胸を見せつけられたら、白馬の王子様を待ち続けて35歳を過ぎたフェミニンなお一人様は、ハンカチを強く噛んで悔しさを表現するしかありません。キーッ!ってね。でもその直後、姉妹独特の、不満はいうけど逆らえないカースト制度のもとで繰り広げられる、好感度の高い綾瀬はるかとの会話。このシーンで「お高く止まってんじゃないわよ!長澤まさみ!」という言葉は仕方なく飲み込むしかないのでした。「綾瀬はるか、よくやってくれた!」だったりして。

 

これで三姉妹のパワーバランスはわかりました。しっかりもので信頼されている長女。不満はいうけど姉の大変さも理解している次女。長女と次女の対立は、本気ではないことを知っていて、自分は自由に、たまに決定事項に従う三女。これらを伝えるのに、ここではこんなにつらつら文字を書いているのに、いったい映画では何分の出来事だったんでしょうか。いやはや、うまい。

 

そして、お葬式に行けない理由としてさらっと言った長女の「当直」という言葉で、長女の仕事がなんとなく想像できます。この「確定ではないけれど想起させる言葉」が後々ちゃんと効いてきます。ここでは長女の仕事を想像させるきっかけを与えたにすぎません。

 

すずの登場後、次女と三女の二人の構図はすぐさま四女との三人に切り替わりました。はるかロスが解消されたかと思いきや、すずに案内されている間も長澤まさみの長くて細い脚が楽しめるだなんて、完全に監督は確信犯です。山形の田舎のお葬式にいくのにそんなスカート履いてくるんじゃないよ、長澤まさみ! と思いましたからね、お一人様は。すずの案内で山道歩いてるし。一方で男どもには蚊になりたいとまで思わせる手法。ごちそうさまです。

 

場面はお葬式のシーンに移り、様々な会話が交わされます。ここが素晴らしい。冗長も不足も一切なく、すべて必要なセリフのみという離れ業を自然に見せてくれました。

 

こないと言っていたはずの長女の突然の登場。この行動が長女の中の葛藤を表しています。自分たちを捨てた父親との確執。腹違いの妹の存在を知ってなお、仕事を理由に顔を見せないと決めた自分の頑固さ、妹たちだけを向かわせた罪悪感と、それに抗った責任感。「よくここまでこれたね」という次女の言葉に「職場の人に送ってもらったの」という返事は、自然な流れでありながら、こんなところまで送ってもらえるほどの親しい存在が職場にいることを教えてくれます。男の腕の中で目覚める次女のシーンがまだ古くない場面において、このセリフは男の存在を匂わせるには充分です。

 

綾瀬はるかロスが当の綾瀬はるかによって再び解消されるも、今度はすずと三姉妹の間に壁があることが強烈に描かれます。三姉妹はあくまで何年も会っていない父親の葬儀への出席。目の前では家庭を壊した父親の不倫相手が喪主を務めています。
一方、すずは父親の葬儀の中心人物の一人でありながらもお焼香を滞りなく済ませるあたり、中学生とは思えないほどの落ち着いた佇まい。会場まで案内してくれた流れから、腹違いの妹はしっかりとまっすぐ育っているんだと、三姉妹は安堵します。弟の扱いも手慣れたもの。聞けば、弟は再婚相手の連れ子という。歪ながらも一つの家庭がそこにあることを知ります。
ところが状況は一転。喪主の挨拶という、お葬式では重要なイベントを、中学生のすずに任せようというなんとも情けない流れができあがります。これには観客もおいおいと冷や汗をかくところ。美人姉妹の華やかな絵面に一喜一憂していたはずが、突然の流れに「そりゃだめだろー」と我にかえります。
そんな観客と呼吸を合わせるように、長女の顔が一変し、妹の情けない両親を叱責します。同時に、ここで長女が目の前の夫婦を見限ったことを観客は感じ取ることができました。すずがこれまで感じていた閉塞感を共有し、今後のすずを案じます。しっかりとまっすぐ育ったんじゃない、育たざるをえなかった境遇であったと。

 

お葬式シーンの会話は案外複雑です。すずを取り巻く面倒な人間関係を浮かび上がらせるためにはどうしたって説明が必要なはずです。家庭を壊した女。夫の葬儀にすでにいる次の男。その男の連れ子。それらが最低限の会話で示されたことは、あたりまえのことのように思えて、案外書けないセリフです。どことなく説明口調になりやすいんですよね。引き算をし続けた結果が実直に物語に昇華されていました。綾瀬はるかの見せ所でもあるのでなかなか見応えがありましたね。

 

その後、また三姉妹の構図。お葬式からの帰り道、ただ道をまっすぐカメラに向かって歩いているだけなのに画になりますねぇ。三人を追いかけ走ってくるすずは、ずいぶん長い距離を走らされているように感じましたが、たいして息が上がっていないのがすごい。若いってすごい。自分が渡した写真を覗き込んで楽しく会話する三姉妹は、自分の居場所を探す思春期の四女の目には眩しかったのでしょう。まるで逃げるように、でも少し後ろ髪を引かれるような思いで、すずを後ずさりさせました。そこへ長女の突然の提案「あなたの好きな場所へ連れてって」。これは、一緒に住もうと提案するのかという観客の一瞬の予想を裏切りました。「好きな場所」ってなんだ?? でもすずは駅からお葬式会場への近道を知っているぐらい土地勘のある女の子。きっと野山を駆け回って、自分だけの特別な場所を知っているはずです。
パーソナルな場所へ初対面の人を連れて行くのって抵抗ありませんか? 自分だけの宝箱をこじ開けられるような気がしませんか?
でもすずは、目の前で思い出話をした初対面の姉たちにすでに一種の憧れを感じていました。そこにある強固な輪を感じていました。自分がお葬式の挨拶を任されそうになったとき、しっかりと「大人の仕事」として断ってくれた姉を信頼していたんでしょう。
三人を引き連れて、自分だけの特別な場所へ向かうすずの背中は充分にそんな機微を語っていました。

 

すずの大切な場所から、四人で街を見下ろすとき、すずは束の間の一体感を感じていたんでしょうか。宝箱を開け放つ気恥ずかしさと、そこに生まれる仲間意識は、けれど三姉妹の他愛のない会話で別の感情へと変わります。どこか鎌倉の景色に似ている、と言い合う楽しげな姉たちと私は違う。なにも共有なんてしていない。そんな疎外感が湧き上がり、同時に鎌倉という土地への思いを抱くことになりました。正直、ここは少しあざとさを感じます。○○の景色に似ている、というセリフは手垢がベタベタで、それが物語において一つの重要なファクターになる、つまり鎌倉で同様に景色を見下ろすというシーンが今後必ずあるというベタな流れを作りました。一方で、すずの胸に憧憬を生み落とし、背中を押すための外せない情動のきっかけであることも間違いありません。

 

疎外感を感じつつも責任感と離れ惜しさから、三人の姉を駅まで見送るすず。電車に乗りこんだ長女から、やっと観客が待ち望んだセリフが聞けます。「私たちのところにこない?」このとき、その提案に一番驚いていたのが次女です。画角の関係上、次女の表情が最もよく見えます。束の間、姉の横顔からすべてを悟った次女は、その提案を後押ししました。この表情のめまぐるしい変化を長澤まさみはいとも簡単に演じたようでした。姉がすずの両親を叱責する姿を、次女もまた離れたところで見ていたのでしょう。そして、帰り道での姉の愚痴。ほとんど病院にも顔を見せなかったそうよ、というセリフから姉の憤りを感じ取っていました。
また、傍らでそのやりとりを見ていた三女は決定事項には従う性格。それはもう決定事項のように、いたずらな笑顔で妹ができる未来を見ていました。次女と二人でお葬式に向かうと決まったとき、妹が欲しいと思っていた幼い頃とは状況も感情も違う現在を見ていたはずなのに、二人の姉の提案を純粋に喜ぶ三女は、三人の中では最も年下で、つまりすずと最も歳の近い幼さを残している。
電車の出入り口という迷惑極まりない場所で、田舎だからこそ許される持ち時間をもって、三人の姉は電車の乗り口を新しい生活へ向かう階段へと変えてくれました。
ダメ押しは、すぐに返事を決めなくてもいいという優しさでした。

 

返事を逡巡するすずが作り出した時間は、永遠と刹那という矛盾する感覚を共有させる物語であり、これからすべてが始まることを示すプロローグの、その終わりを感じさせるものでした。結果は「行きます」という即答でしたが、決して即答ではない数多の想いが駆け巡っています。

 

映画が始まってまだ十数分。実に見応えがあるではありませんか。ここで席を立つ観客はいないでしょう。
過小でなく過多でなく、心地よく響くそれぞれの感情が観客を安心させていたはずです。

 

 

さて、ここまで書いてきてなんなんですが、こんな調子で書いていたらいつまでたっても書き終わらんわ!
ということで、まだまだ盛りだくさんなんですが泣く泣く話を変えましょう。

 

批判というほどではないんですが、私が雰囲気映画と評した理由は決して上記の秀逸な脚本によるものだけではありません。よくも悪くも雰囲気映画なんです。
なにも事件が起こらないことは問題ありません。むしろそれこそが、邦画が培ってきた技術ではないんでしょうか。昨今のドンチャン映画なんかよりはよっぽど面白いです。
ただ一方で、果たして観客はこの映画に入り込めるんでしょうか?? だってあんな美人四姉妹、どっからどう描こうが、フィクションの域をでません。実は観賞という言葉は適切ではありません。鑑賞ですよ。映画館ではなく美術館で楽しむものです。そして、妄想です。

 

映画にでるのは美男美女ばかり。それは今に始まったことではありません。加瀬亮堤真一も、みんながみんな美男美女であることに、観客は慣れているはずです。映画ってそういうもんだもん。でもね、さすがにやり過ぎなのよね。
四姉妹にはエクストリーム美人が並び、画面が常に眩しく、馴染みの定食屋には風吹ジュン。無責任なお母さんは演技派大女優の大竹しのぶさすがにお腹いっぱいよ。
大竹しのぶファンとしては、その一挙手一投足に釘付けになり、自分だけが気付くことができる大竹しのぶの演技を血眼になって求めていましたが、とにかく画がずっとまぶしすぎ!!
意図的に排除された男性陣の脇役っぷりがこれまた眩しさを強調していました。

 

ところで、男性が描く女性女性が描く女性、どっちが市民権を得ているのでしょうか。反対に、女性が描く男性男性が描く女性はどっちが市民権を得ているのでしょうか。

 

私の勝手な感想では、女性は男性が描いたほうが、男性は女性が描いたほうが魅力的です。
だって、宝塚の男役も、演劇における女形もとても魅力的ですよね。それは、根源的な異性への欲求を異性だからこそ描きうるということです。そこにはエゴが演出という形で注入されます。もちろん、男性だから描ける男性、女性だから描ける女性の存在もありますが。

 

そういった意味で、この映画は男性が描いた女性たちの物語です。女性の反感を買わないように細心の注意を払いながら、女性を描いています。そしてそれが成功しています。ただ日常を描く映画として。ただ日常を送る美女たちをのぞき見る映画として。
キャスティングが成功かはわかりません。大人の事情がすさまじいですからね。でも、のぞき見るだけの映画を作ろう、と監督が意図していたならこれは最上級のキャスティングです。感情移入するなんていうスキはありません。それは四姉妹なんて現実にはなかなかいないからとか、腹違いの妹が突然我が家にやってくるなんてイベントは現実では起こりにくいから、なんていう理由ではありません。ただただ、日常を送るにはあまりにみんなが美人だからです。そんな登場人物たちに自らを投影した観客がもしいたら、身の程をしれよって話です。
したがって、観客はのぞき見た結果、単に登場人物のそれぞれが好きか嫌いかという主観的な気持ちをもち、なんとなくみんなの気持ちを理解して、綺麗な景色も一緒に見れていい映画だったという感想を持ちます(決めつけっ!)。
だからこそ、この映画は雰囲気映画なんです。事件が起こらないからではなく、完全なる虚構であることを常に突きつけられ続けるからです。

 

また、これは私の主観、経験則による嫌味なんですが、この映画で描かれる田舎こそ、東京都民が抱く虚構の田舎像です。私は地元を捨てたおのぼり人間です。自らの意志で地元に舞い戻ることは絶対にないと断言できるほどに地元を嫌悪しています。そこには、閉塞感があるからです。
想像してみてください。幼い頃から通い、家族ぐるみで付き合っている定食屋の経済状況を、銀行員になってから初めて知り、その金策を提案しなければならないバツの悪さを。定食屋のお母さんの恥ずかしさを。
田舎の人間関係の息苦しさを息苦しいと感じない人間だけが、田舎に住み続けることを許されます。銀行員なんてやっていれば、あらゆる知人友人が窓口にやってきて、否が応でもその経済状況の一端を知ることになります。余談ですが、銀行員は自分の口座を自分の務めている銀行で作るなんてことは絶対にしません。でも他人の経済状況は簡単に知ることができます。
自分の知人友人が終末病棟にやってきて、その最期を看取るなんてことは、並大抵のことではありません。赤の他人だからできること、というのはあまりに多いのです。自分が知ったことは自分の口から噂となります。同時に、自分のことを知られた時、それは他人の口から噂となります。田舎が監視社会といわれるのは、極自然なことであり、逃れるためにはでていく以外の選択肢がありません。
他人と関わることに好意的で、究極的に人が好きでなければ、田舎で生活はできません。ひとたび、その人間関係に嫌気が差したら、もう後戻りはできないのです。そんな危うさが、田舎には常に存在します。

 

 

この映画、見て損はありません。人におすすめすることをいといません。
でも、見た人が「泣いた!」とかいいながら絶賛していたら、正直、うわぁ。。。ってなっちゃいます。だって雰囲気映画だもん。そこまで心動かされてたらちょっと引いちゃいますよ。もしかして感情移入しちゃった? みたいな。宮﨑駿の「風立ちぬ」を見て「号泣した!」とかいってる人に対する不快さと同じ種類ですね。

 

最後に一つだけ。この上質な脚本、私は「ゆれる」を思い出しました。そちらも是非。

 

あー、(こんなに感想を書けるなんて)いい映画だった!

 

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