おとぎみち

たまにマジメなおとぎブログ

ネットのおかげでどこでも仕事ができるというウソ

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Web2.0」とかいうもはや死語となった言葉が騒がれていた21世紀初頭。


俺は記憶では、
 「これで世界中のどこでも仕事ができるようになる!」
 「家にいながらでも同じ生産性を保てる!」
 「出勤の必要性もなくなるから、満員電車も解消だ!」
みたいなことがまことしやかにささやかれていた。

 

21世紀に突入して16年目。

そんなフワッフワな希望は、しかし現実とならなかった。

 

だって、そんなの全部ウソっぱちだもん。

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現実とならなかった一つの指標はこれだ。

www.nikkei.com

 

世界中がインターネットで繋がり、どこにいても誰とでも繋がれるようになった。
自然とソーシャルメディアが台頭し、人が繋がることがより強化された。
ネット通販のおかげで、誰もが欲しいものを手に入れやすくなった。

 

でも、それでもなお、日本人は東京を目指す。
それってつまり、「繋がってない」証拠だろう?

 

2012年に上梓され、話題となった「ワーク・シフト」

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

 

 

 

この本の中でも、2025年の働き方が予言されている。


中国のとある地方都市で目覚めたビジネスマンは、コーヒー片手にメールをチェックする。テレビ会議をする。仕事をして、納品する。


インターネットのおかげで世界は小さくなり、家にいながらにして、あらゆるものに手が届くと説明されている。

 

いいや、ウソだね。
そりゃあもちろん、そういった働き方をする人も一部ではいるだろう。実は現在すでにそういった生活スタイルを獲得している人もいるかもしれない。きっといるだろう。都会で消耗してない人たち。
でも決して、それはマジョリティとはならないんじゃないだろうか。
俺はそう思う。

 

もったいぶっても仕方ないから、そう思う理由を書こう。

 

なぜなら、ネット空間には「本当の刺激」がないからだ。


人はやっぱり、どこまでいっても 0 から 1 を生み出すことができない。天才以外は。
0 を 1 にするためには、無数の 0.00…1 を集めないといけない。
その「0.00…1」が「本当の刺激」だ。

 

ごめん、ネット空間にない、というのは言いすぎた。
でも俺が感じるのは、その刺激に少なくとも気付きにくいということだ。
目の前にあるはずの「0.00…1」が、「0.00…1」に感じられないんじゃあないか。

 

人はあらゆる感覚器官で多種多様な刺激を受け取っている。それが無意識なところがミソだ。


具体的な話まで落とそう。

 

誰でも身近に、自分より秀でている面を持っていて、かつ波長の合う友人知人がいるだろう。
要は刺激的な人だ。
その人と一対一で向かい合い、侃々諤々議論をしたとする。
そこで交わされる会話は、全て文字に起こし、または音声として、保存可能なはずだ。
だからそこに表れる情報はデータ化できる。等価値なものとして再度閲覧できる。
それは電子空間で再現されても、保存前の生の状態と同じ価値、情報、魅力を持つはずだ。

 

でもさ、人間ってそんなに単純じゃあないんじゃないか?
一対一で向かい合って話をするとき、一番力を注いでいるのは耳と口かもしれない。情報の授受のために必要だ。
ところが実際は、相手の表情、仕草、声色、抑揚など無数の情報を無意識に読み取っている。汲み取っている。

 

それらのあらゆる情報を総合的に見て、自分は興奮し、落胆し、怒り、喜ぶじゃあないのか。
つまり、総合的な刺激が初めて「0.00…1」として自分に刻み込まれるんじゃあないのか。

 

果たして、電子空間で再現されたそれが総合的な刺激を持っているのか。


こんな研究がある。
温かい飲み物を飲みながら、手にその温かさを感じながら会話をすると人は優しくなる。相手に好感を抱きやすい。らしい。

 

こんな研究がある。
相対して会話をする際、二人の呼吸のタイミングは一致していくが、電話だとそうはいかない。結果、連絡手段の違いで理解度に差が生まれる。らしい。


人は生物として感覚器官をコミュニケーションに使用している。
対人でなくても同様だ。
そこにあるモノに触れ、感じ、逡巡する。

 

それが「本当の刺激」なんだと、俺は思う。

 

だから、電子空間では限界がある。
刺激がない、薄い。
それは創造力に直結する。

 

だから、人は人を求めて、刺激を求めて、集合するんじゃあないか。
それが日本では東京なんじゃあないか。

 

気を悪くしないでほしいんだけど、そういう意味だと、ルーチンワークは刺激を求めなくていいだろう。
話の軸は創造的な活動のための渇望だ。
ということは、ルーチンワークに類する仕事は、インターネットの力を借りて成果を上げられるかもしれない。

 

一方で、創造力を要する仕事は上記のとおり、厳しいかもしれない。
そのために、人は集い、刺激しあい、発明をしていくんじゃあないか。
換言すれば、モノを生み落とすためのメソッドは、より刺激的な環境に身を置くことだ。

創造力の直接的な例として、

ベストセラーを生み出す作家は、極端な話、テキストファイルの授受なんてそれこそどこでも誰でもいつでもできるのに、ほぼ首都圏に住んでるのはなぜなんだぜ? 少なくとも、ド田舎に住んでてコンスタントに作品を発表し、評価を受ける作家がいることを俺は知らない。

 

ポケモンGOがリリースされたとき、「地域差別がひどい」という話題がよくネットにあがっていた。人のいない地方には、決まりきったモンスターしか出現しないし、ポケストップも全然ないという。

そりゃあそうだ。ポケモンGOがIngressを元にしている以上、その制度は参加人数に直結する。新しい時代の新しいエンターテインメントにも、人の数が影響した。集客力があることがそのまま精度となった。

人は、人を求めてるんじゃあないか。

だからSNSをやるんだろう。

 

ただし、誤解しないでほしいのは、これは電子空間の限界についての話だ。
人が集まる東京、それ以外の地方に刺激がないという意味ではない。

 

若干、話が逸れるけど、その土地その土地には交換可能でない固有に刺激があるはずだ。そしてそれがパトリオティズムとして醸成されているはずだ。そういう意味で地方に刺激がないとは思っていない。
でも、刺激というものを創造力に繋がる刺激に限定した場合、その多くは他者からの刺激であるように思う。だから人は、人が集まる東京に集まるという論理だ。
刺激のある物理空間と、人間が抽出した結果を垂れ流す電子空間の差異について憂いている。
都会と地方を比べているわけじゃあない。


インターネットによって人類の集合知が生まれることが期待された。
事実、素晴らしい発展、発見、発明の契機となっている。
でも一方でファイル共有ソフトは悪者にされ、孤独を解消するためだけの糸電話は人間の欲望をさらけだした。
様々な功罪の中で、未だに世界中を繋ぐという希望の塊だけが絵空事と気付かれずに存在しているように感じる。
夢想といってもいい。
でもさ。
繋がったと錯覚することで、失ったものまで「なかった」と錯覚しているんじゃあないか。

 

いつから、電子空間がリアルだと錯覚していた?


ところでノマドワーカーどもはどこにいったのよ。まだスタバのコーヒー飲んでんの?

 


あー、ゾッとした!

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