オタクがにわかに恐怖する
小学3年生のころ、いつも一緒に下校していた友達がいた。
もう20年近くも前になるし、確か小学5年生のころにその友達は転校してしまったから、もはや名前も覚えていない。
唯一おぼえているのは、
彼はセーラーマーキュリーが好きだった
ということだけだ。
ネットの登場によって、マイノリティに属する人たちが容易にコミュニティを形成できるようになった。
オフ会を「オフ会」と称していることからも通常彼らはネット上で交流していることがわかる。
さらにサブカルチャーがいつの間にかクールと呼ばれるほどにまで成長したことでいわゆる「オタク」の社会的地位は一気に向上した。
冒頭の彼は、当時こそオタクだなんて呼ばれることはなかったが、充分な素質の持ち主であり、そのまま成長しているとしたら現在もなんらかのキャラクターに心酔しているかもしれない。
だって私はいつも、下校途中にセーラーマーキュリーの切り抜きを見せられていたんだもの。
そしてそんなオタクが最も嫌う存在が「にわか」だ。
リア充に対しても憎しみを抱いているんだろうけど、それについては別の機会に譲ろう。
リアルが充実しているオタクもいるからな。
たとえば
懇意にしていたマイナーなバンドの曲が急にヒットして、TVにでるようになったとき
なでしこジャパンが脚光を浴びて、当たり前のように試合が中継されるようになったとき
ラノベがアニメ化されたとたんに一気に薄い本がでまわるようになり、リア充たちの話題にものぼるようになったとき
オタクは声をそろえて言う
「にわかのくせに」
にわかは一体全体、なにが悪いのだろう。
オタクからすればマイノリティからマジョリティにシフトするその瞬間に立ち会えたという体験であり、また別の言い方をすれば、自分の価値観が社会的に認められたという体験でもあるはずだ。
マイノリティがマジョリティとなることは決してオタクにとっても悪いことではない。
三つ目の例でいえば、自分の好きな物語にアニメというツールを介して触れることができるようになる。
そしてグッズが発売されればさらに自分の愛を示すことができるようになる。
コレクションするというのがオタクの原動力ではないのか。
そもそも、自分が応援する対象がマジョリティから支持されるようになることでさらに創造的になれば至福の喜びではないか。
オタクがにわかを忌み嫌うのはなぜか。
それは単純にして簡潔だ。
にわかがオタクのアイデンティティを揺るがすからである。
オタクは人生の一部分をその対象に費やしてきた。
時間を割いてさまざまな知識を得て、その分野では誰にも負けないという自負心を育ててきた。
好きだという思いをそのままアイデンティティへと昇華させてきた。
にわかはそんなことをしていない。
時間を費やしていない。
流行りものとして消化しているにすぎない。
私はそこまで詳しくないが、話をアニメに限定してみよう。
オタクが見ているアニメは多分かなりの数がある。それはきっと玉石混交であり、つまり取るに足らないものまであるはずだ。
そこでオタクは取捨選択という時間を割くことになる。
社会現象となった「新世紀エヴァンゲリオン」だって元はただの30分アニメでしかなかったし、最近でいえば「魔法少女まどか☆マギカ」だってその類だ。
「君の名は。」はちがうな。うん。
マイナーですらまだない埋もれる運命にあるアニメを支持することで救いだすのはオタクの力そのものだ。
そして徐々に認知度が高まり、ある一点を超えた瞬間「にわか」が手を伸ばす。
オタクからすれば自分がマイノリティからマジョリティへとシフトするその瞬間とは、時間をかけて原石を磨きつづけ自らのアイデンティティとなるまで昇華させた対象が、沸点を超えた瞬間ににわかに消化されるようになる瞬間といえるのである。
なんと不幸なことか。
アイデンティティであるはずのものが「にわか」によって流行という一過性のものに転換されるだなんて。
まさに円環の理に導かれているではないか。
だからにわかの諸君よ。
せめてオタクのアイデンティティを駆逐するのだけはやめて差し上げろ。
好きになったら知識の習得に時間を割け。
それがエンターテインメントの消化する上で最低限の礼儀であり、正当性と正統性を手に入れる資格を得るための必須条件だ。
あー、ゾッとした!