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おとぎみち

たまにマジメなおとぎブログ

わかる、ということ

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「わかる、ということはわからなくなること」

 

という主張を展開すると、また面倒くさいことを言いだしたぞといった憐憫を含んだ表情を向けられることが多いから、言葉を足していこう。

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人間誰しも、絶えずなにかについて評価をし続けているといっても過言ではない。

 

学校生活、同僚、先輩後輩。
他人の服装や今日のランチ。天気まで。

 

別にそれ自体を否定するつもりはないが、特に人への評価についてはもっと冷静になるべきだと思う。
改まった場で出会うような、つまり入学式や合コンだとか、お互いに初対面であったり何らかの期待をしていたりといった場面でなければ、人はたいてい「この人はどんな人なんだろう」という冷静さを持っていない。

 

だから簡単に
 「この人は神経質な人だ」
 「この人はがさつな人だ」
 「なんだか粘着質」
という評価をくだしてしまう。属性を与えてしまう。


そして最後に、
 「この人とは相性が悪い」
と決めてしまうのだ。

 

さすがにここまで極端でないとしても、少なからず相手を自分の言葉で置き換えるという作業をしているだろう。
それがプラスの評価ならあまり問題はない。双方にメリットがあるかもしれない。

 

ただし日常生活では、特に仕事上の関係なんかでは、ある一部分のみを見る場面が多いんじゃないだろうか。
あまりよくは知らない人だけど、たまたま見かけた最初の三回が「部下に注意をしている場面」だったとしたら、もうその人への評価は意識するしないに関わらず「怒りっぽい人」だ。もしくは「怖い人」とか。
そこにあるはずの脈絡、部下の失敗なんて要素は完全に抜け落ちて、評価してしまう。

 

そもそも学校や職場といったコミュニティで過ごす時間なんて限られているし、そこでの振舞いはコミュニティの性質に依存する部分が大きい。そして人間は知ってか知らずか自分の役割を演じていたりもする。

 

あまり人にものを教えるということが得意でなくても、後輩を指導することを仕事として命じられることもあるし、純粋な善意で経験則を話すこともある。
たとえ自分の過失でなくても立場上あやまり続けるしかない場面もある。

 

そんなそれぞれの背景を簡単に排除してしまうことに、もっと冷静になる必要があると思う。
そして、一度くだした評価を疑う柔軟性を持つ必要があると思う。

 

「わかった」と評価してしまうことで、もうそれ以上の評価を与えることをやめてしまうというのはつまり「わからなくなること」なんです。

 

え?
ゼロベース思考で、なんてかゆくなるような言葉で片付けるのはやめてください。

 

あー、許せない!

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