片手にピストル 心に色眼鏡
知人に、異様なまでに桃が嫌いな人がいる。
桃ってもちろんあの果物の桃だ。
知人に、パスタが嫌いな人がいる。
パスタってあの子供の大好物ランキング上位に食い込むあのパスタだ。
パスタが嫌いな理由は、食べている間ずっと同じ味だから、らしい。
それってうどんとかカレーとかもそうなんじゃないか?とは言わなかった。
その話を聞いた時はちょうどカレーうどんを食べていたし。
それよりもむしろ女性でパスタが嫌いな人がいるということの方が衝撃だった。
桃が嫌いな知人はもはや病的に嫌いなようだ。
「桃」という単語すら聞くのが苦痛らしい。
もともとはあのグジュッとした食感が苦手らしいのだが、いつしかその感情がエスカレートしていったという。
今では中華料理のチェーン店バーミヤンも嫌いで一度も入ったことがないらしい。
そういえばバーミヤンのロゴマークには桃があしらわれている。
学生時代、バーミヤンでアルバイトをしていた私もなぜか強く罵られた。
ここまで極端ではないにしても、誰にでも苦手なものはあるだろう。
私はなぜか斑点模様が苦手だ。
不規則にうごめくブツブツを見ると鳥肌が立つ。
幾何学模様なら気にならないんだけど。
「なんとなく嫌い」
「生理的に受けつけない」
という感覚は非常に原始的な感覚だ。
知人の二人は理由を明確に答えられているが、私は自分がなぜ班点模様を苦手とするのか自分でもわからない。
たとえば、乳児期にある恐怖体験をしたとしよう。
乳児のそばに白いウサギのぬいぐるみを置く。
その愛らしい姿に乳児はすぐに興味を示し、近寄っていく。
いざぬいぐるみに手が触れるという時に、ぬいぐるみから突然大きな音をだしてみる。
乳児にとっては大きな音というのはそれだけで恐怖であるから、おそらく泣きだすだろう。
残酷なようだがこれを繰り返す。
すると乳児はいつしか白いウサギのぬいぐるみに近寄らなくなる。
ここで重要なのは、同時に汎化と呼ばれる現象が起きることだ。
白いウサギのぬいぐるみが恐怖の対象となったが、次に白いネコのぬいぐるみを置いても、乳児は決して近寄らない。
本物の白いウサギだってもうダメだ。
つまり類似するものまで恐怖の対象、嫌いなもの、苦手なものになる。
この場合、「白い」という条件が最も際立っているため、もはや白い服を着ている人にすら恐怖するかもしれない。
ただし、乳児は成長するとそんな体験は忘れてしまい、単純な恐怖の感覚だけが残る。
こうして「なんとなく嫌い」なものが生まれていく。
このような生理的な嫌悪は、いわば生存本能に根ざしているため解消しようがない。
三つ子の魂は百まで受け継がれるのである。
しかし、無用な汎化は避けるべきだ。
経験則は時として足枷となるし、色眼鏡は理性的な取捨選択の障害となる。
だって、だからといってアルバイトしていた私を罵ることはないんじゃないか。
みなさんにも「なんとなく嫌い」なものがあるだろう。
それらを書き連ねてみよう。
共通点が見つかれば、それは色眼鏡かもしれない。
そしてその色眼鏡は、あなたの審美眼を曇らせているかもしれません。
あー、ゾッとした!